今日はなんか暗いのー;
多分体調悪いのと、楽しかった3〜5月前半までの揺り戻しみたいのが来てるっぽい。五月になすりつけてもいいかな。こんな風にいろんな人間の言い訳に使われる五月もかわいそうに。
ちょっとこっからは長くなりそうだし、暗いので、下げておきます。ちなみに、この下からはここ数日メモに書きなぐっていたものを抜粋したもので、上から下に時系列で繋がっているものではありませんので、もし読まれる方はそれをご承知おきください。暗いこと書いて、ごめーん(´;ω;`)
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悲しいことを考えるのはやめにしたい。悲しいことを考えるのは、当たり前だけど悲しい。辛い。でも、悲しみばかりを数えるのは楽だ。少なくとも、私にとっては。前進せず、後退していればいいだけの話だから。そういう無駄なことに時間を割く行為はしたくない。
私には、キリスト教的な考えを飲み込む才能がないらしい。小学生のころから、駄目だった。12年もミッションスクールに通ったけど、反感が消えた試しはなくて、それは今でも引きずっている。自己犠牲も隣人愛も、仏教だって同じようなこと言ってるのに、キリスト教的自己犠牲や隣人愛には、なんでこんなに反発を感じるんだろう。高校の時、ずっと思ってた気持ちをあるクリスチャンの先生(といっても、うちの学校の先生はほとんどがクリスチャンだったんだけど)にぶつけたら、すごく真摯に話を聞いてくれて、沢山話し合いもしたけど、結局駄目なんだなぁ。昔働いていた場所で、プロテスタントの牧師の資格を持つ人に出会った。彼とは、私がその職場を辞める直前まで挨拶を交わすぐらいの交流しかなかったけれど、私が職場を辞めると分かった時、仕事帰りに話しかけられた。「あなたは周りの人とは、少し毛色の違う人だと思っていた」といきなり切り出されて、非常に面食らったのを覚えている。職場を辞める日、その彼から新約聖書を貰った。私にとっての聖書は「雅歌」のみだということは言えず、貰った新約聖書もあれから一度も開いてない。とても有り難かったけど、私には荷の重い贈り物だった。
人間が悲しみや苦しさ、恐れでは死ぬことができないように作られている以上、自殺はやはり自然な死ではないし、受け入れてもいいものではないんだろう。大学時代に、文章構成について学ぶ講義の中で、「自死(自殺)」についての小論文を提出したことがあった。私はその中で
「現代は、死というものを実感しにくい時代、といわれている。多様な死の存在するこの時代において、自らの生を自らの手でコントロールしようとし、その選択肢として選ばれた自殺というものを、我々は一つの「死」として受け入れてゆくべきなのではないだろうか」と書いたが、今となっては、そうは思わない・思えない気持ちの方が強い。当時、講義を担当して下さった先生はこの小論文を、感想の中で一言目に「すばらしい。」と評価してくださった。そして、個人的に色々と話す機会も作ってくださり、私の思うところを、否定も肯定もせずただ静かに聞いて下さった。けれど、多分内心では少し困り顔で私の話を聞かれていたのではないかと思う。当時の私は、自ら死を選んだ本人の気持ちを思いやることには必死だったけれど、残された人間のことを思いやることは、ほとんど出来ていなかったように思うから。だから私は、今その小論文を読むと、どうにも苦笑いしてしまう。当時、二十歳にも満たない小娘の、やたらに悲観的な話を静かに否定することなく聞いて下さった先生には、今でも感謝している。今の自分が、もし当時の自分の話を聞いたら、あんなに静かに耳を傾ける自信はない。誰かに一生消えることのない疑念を植え付けてしまう行為をすることは、今の私にとってはとても怖いことだから。 いつかそれさえ、冷静に考えられる時期が来るのだろうか。年をとるということは、だから面白いことだと、私は思う。もっと若かったころ、思い余って決断しなくてよかったと思うことが、今になって沢山あるから。
私は「虚」の性質を少し多く持ち合わせすぎているのかもしれない。母親からも、よくそう言われる。普段は偉そうなことを言っているけど、一人になったら危ないなと自分でもそう思う。私は結局、誰かの「実」に乗っかることでしか「虚」を消し去ることは出来ないみたいで、それが悲しいと思うときがある。だから、自分の中にある虚に浸りきって、安楽に過ごすことだけはしたくない。私は、本当に人に恵まれてる。私の周りには「実」を持った人が沢山いて、私が危機に陥ると面倒も厭わず何とか引き上げようとしてくれる。もっと感謝するべきなのだと、いつも思うのに、なかなかそれができなくて、申し訳ないし不甲斐ない。自分の性格は、誰に強要されたものでもない、自分で作り上げたものなのだから、誰かのせいにだけは絶対にしたくない。それが家族であっても、それだけは絶対にしたくないし、してはいけないのだと思う。私は本当に無責任に生きてきた人間だけれど、せめて自分にぐらい、責任をもって生きたい。
このところ、少し疲れているのかもしれない。けれど、私に「疲れた」と言う資格なんかあるんだろうか。疲れてるって、一体何に?ストレスとは無縁の生活を望んで、それを実行しているはずじゃなかったのか?自分でも答えが出せないのに、疲れたなんて言ってもいいんだろうか。
愛らしき 空のいろの
わすれなぐさの花となりて
懐かしき君の釦穴(ぼたんあな)に
挿されて歩む夢を見ぬ
(わすれなぐさの夢/西条八十)
明日は元気になっているように。