(確かにあの夏、私は変だったと自分でも思う。頭の中を駆け巡っていたのは、ローゼンバーグ夫妻のことと、高いだけで着心地の悪い服をたくさん買いこんでは、死んだ魚みたいにだらりとクローゼットの中に吊るして喜んでいる自分のばかさ加減についてだったり、小さな成功、大学をずっと優等生で通しつづけてきたプライドが、マディソンアベニュー沿いのすべすべした大理石と大きなガラス張りの建物の前では、どうしてこんなにみすぼらしく映るのだろうというようなことばかりだった)
本当なら人生を謳歌しているはずなのに。
(シルヴィア・プラス 『ベル・ジャー』 青柳祐美子訳 河出書房新社)
ずっと迷っていた絶版本を、深夜のいけないテンションで昨日購入したが(といっても、大変良心的なお値段だった)、今日にはすぐに発送になり、もうすぐ手元に届くそうだ。早い。心の準備ができておらん。
前に或る人が、ろくでもない父親を、その子どもが、心の中では嫌いながらも切り捨てることができない場面を見て(それはドラマだったように思う)、「そんなふうに子どもに思われる父親ならば、そういう場面をきちんと事前に描いて欲しかった。」と言ったことがあった。けれど、僭越ながら私はそうではないと思う。その父親が、実は優しい面もあったとか、世間一般的に見て父親として評価できる面があったかどうかということは、あまり関係ないと思う。どんなに駄目で、情けない、しょうもない人でも、子どもは親をそう簡単には切り捨てられない(親にとっての子供、も然り)。だから、親子(もしくは家族)は切ないし悲しいのだと思う。そういうことを、あの場面では描きたかったんじゃないかしら、と私は勝手に今でも思っている。ということを、思い出した。
気づいたらこんな時間。
みなさん、とりあえずお休みなさい。